自分を大切にする。とよく聞きますが、それって具体的にどういう事を指すのでしょうか。
普段できない贅沢をする?
おいしいものを食べちゃう?
いえいえ、それより大切なことがあります。まずは自分自身の味方であること。
私はこれに尽きると思います。その話をしたいと思います。
自分自身の味方でいるとは、どういうことだと思いますか?
私は、自分の感じたこと、心の痛みも含めて、それを感じた自分に対して100%寄り添う気持ちと思いました。
体験談ですが、
私は2010年に母親を病気で亡くしました。
そしてそこには、胸にぽっかり穴が開いたような深い悲しみがありました。
それでも、少しずつ母親の死を受け入れていったとき、友達とお茶をする機会がありました。
自分が経験してきたことも、そしてだんだん心の傷が落ち着いてきたことを話したとき、その友達は言いました。
「実のお母さんが亡くなったのに、元気になってすごいよ。私だったらそんなに早く立ち直ることできない」と。
私はこの言葉がショックでした。
目の前にいる友だちはもしかしたら慰めてくれているのかもしれない。
でも、迷惑をかけたくないから泣かないように頑張って、辛い気持ちも含めて話をしたのに、それを理解してくれない悔しさがありました。
母のいない悲しさも、友達に言われた言葉も、すごく辛いのに理解されない気持ちが悔しかったのです。
今度は逆にこんなこともありました。
父が突然死したとき、あまりにも急の出来事だったので、私は取り乱したように悲しみに沈みました。
娘や親せきがいても、悲しみが抑えきれず泣き崩れる時もありました。
(でも、喪主を務め葬儀や納骨など、すべての段取りや手配をこなしました)
そんな私を見た義母は、私の娘に向かって言いました
「親が先に死ぬことなんて当たり前のことなのに、お母さんはあんなに泣いて可笑しいね」と
悲しみを我慢すれば「実の母が亡くなったのに、平気なんだね」と言われ
そのまま悲しむと「みっともない」と言われる。
なぜ、自分の感情をそのまま感じることに、自分ではない他人にあれこれ言われるのだろう・・
言った方はその場のノリで深く考えてないから言ってしまったことでも、言われた方は言葉の矢が刺さったまま、それも抜くことができずに苦しみます。
そうすると、それを感じている自分も許せなくなって、その言葉をいった人も許せなくなります。
そんな気持ちがずっと胸の奥にあったのですが、チャクラの瞑想をしながら「感情を感じるのは別におかしいことじゃない」と思うようになりました。
そして、その胸の痛みがあるのは私。
それを感じているのも私。
つらいと思っているのも私。
だから「私」じゃない別の人がその痛みを感じないのは当然。と思えるようになりました。
例えば指を切った人がいたとして、とても痛そうだけど、見ている人は「痛そうと思うけど実際は全く痛くない」のです。
指を切っている私が「痛い」
その痛みは誰にも分からないし、誰にも理解されない。
実際にどれくらい痛いのか、どんな風にヒリヒリしているのか?
泣くほど痛いか、そうでないか。
その痛みも・傷の深さも・辛い気持ちも誰にも分からないし、分かってもらえない。
人は、自分が「こんなに痛いの!」とわかってもらおうと思うけれども、じっさいには「分かってもらえた感じがする」という程度でしかないのです。
だからこそ、その痛みも辛さもわかってあげられるのは自分だけ。
そのとき、自分が自分を否定してしまったら、本当に味方はだれもいなくなってしまうでしょ。
なので、自分自身はどんなことがあっても、自分に100%寄り添うことが大切なんだと思いました。
「そう感じてしまったんだね」
「そう思ってしまったんだね」
「そう感じるのは当然だよ」と
怒り、悲しみ、喜び、悔しさ、切なさ、すべての感情を否定しないで、だただた受け止めていく。
それが本当に大切なことなのだと思います。
一旦、感情を感じきると、その感情は成仏して消えてくれます。
とてもとても大切で大好きな親友がいたとしたら、どんな言葉をかけますか?
その親友が目の前で悲しんでいたら、どんな言葉をかけるでしょう。
「大変だったね」
「辛かったね」
「わたしで良ければいつでも話を聞くよ」
「今は辛いかもしれないけど、きっと元気になっていくよ」
「いつでもそばにいるからね」
そんな風に、本当はかけてほしかった言葉を自分自身に言ってあげてください。
その言葉を自分自身にかけてあげられない人は、「私の方が痛いに決まってる!」と他人の痛みにも共感できなくなりますよ。
一番言ってほしい言葉を、他人に求めるのは酷なことです。
なので、自分が自分の味方になり、自分で自分に言ってほしい言葉を言ってあげるのは大切なセルフヒーリング方法の一つです。
100%自分に寄り添い、自分を親友として扱いましょう。
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